
光明紀の棚


- 1903年
- 九月五日、青森市大町に生まれる。棟方家は伝統ある刃物鍛冶であった。
- 1921年
- 秋、友人松木満史、古藤正雄らとともに洋画団体「青光画社」をつくり、第一回展を日本赤十字社青森支部で開催。この頃から、「狢の会」をつくり、文学や演劇を研究。
- 1928年
- 春、同郷の先輩下沢木鉢郎に紹介された平塚運一に会って、版画の道に進む。十月、油彩画「雑園」で第九回帝展に初入選。五年ぶりに帰郷。
- 1931年
- 四月、東京神田の文房堂で第一回の個展。処女板画集「星座の花嫁」を刊行。十月、油彩画「荘園」が第十二回帝展に入選。
- 1932年
- 日本版画協会会員となる。
- 1935年
- 四月、板画「萬朶譜」により国画会会友になる。
- 1936年
- 四月、第十一回国画会出品の「大和し美し」が契機となって、柳宗悦、河合寛次郎、浜田庄司らの知遇を受ける。
- 1938年
- 十月、第二回新文展で「善知鳥板画巻」が特選となる。「観音経板画柵」で、初めて裏彩色を試みる。
- 1939年
- 春、「釈迦十大弟子」を制作、翌年の国画会展で佐分賞を受ける。
- 1945年
- 四月、富山県西礪波郡福光町に疎開する。五月、東京・代々木の家を空襲のため焼失、版木のほとんどを失う。
- 1952年
- 四月、スイスの第二回ルガノ国際版画展で「女人観世音板画巻」が優秀賞。五月、日本版画協会を脱会して、日本板画院を設立。
- 1955年
- 七月、第三回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に「釈迦十大弟子」「湧然する女者達々」等を出品、版画部門で最高賞を受賞。
- 1956年
- 六月、第二十八回ヴェニス・ビエンナーレ国際美術展で「柳緑花紅頌」などで国際版画大賞を受賞。
- 1956年
- 六月、第二十八回ヴェニス・ビエンナーレ国際美術展で「柳緑花紅頌」などで国際版画大賞を受賞。
- 1959年
- 一月、ロックフェラー財団とニューヨークのジャパン・ソサエティの招きで渡米。各地の大学で版画の講義や個展を開催。「ハドソン河自板像」等を制作。夏、ヨーロッパを旅行。パリ郊外のゴッホの墓を訪れる。十一月帰国。
- 1963年
- 四月、「東海道棟方板画」制作のため、取材に着手。翌年二月までに七回のスケッチ旅行をする。十一月、大原美術館に棟方板画館が落成する。
- 1965年
- 一月、日本の木版画への寄与により昭和三十九年度朝日文化賞を受賞。二月、二度目の渡米、四月までワシントン大学で日本の版画を講義する。六月、帰国。
- 1967年
- 三月、日本板画院の名誉会員となる。六月、新日展審査員となる。十月、三度目の渡米。クリーブランド、ニューヨーク、ワシントンで展覧会、翌年一月帰国。
- 1969年
- 八月、日本万国博覧会出品のため「大世界の柵・乾」を完成。十一月、第一回改組日展の「東北風の柵」を出品。
- 1970年
- 一月、全長十七メートルの倭画「称舞多運行連連絵巻」を描く。七月、志功を改め志昂とする。八月青森に帰郷。三内霊園に石も形もゴッホと同じにつくった自身の墓碑銘を書く。九月、棟方志功記念館(青森市)着工、また棟方板画美術館(鎌倉市)が開館。十月、アメリカ、カナダを旅行、十二月旅行先で健康を害し、入院する。志昂を再び志功と改める。
- 1974年
- 一月、全長十七メートルの倭画「称舞多運行連連絵巻」を描く。七月、志功を改め志昂とする。八月青森に帰郷。三内霊園に石も形もゴッホと同じにつくった自身の墓碑銘を書く。九月、棟方志功記念館(青森市)着工、また棟方板画美術館(鎌倉市)が開館。十月、アメリカ、カナダを旅行、十二月旅行先で健康を害し、入院する。志昂を再び志功と改める。
- 1975年
- 四月、日展常務理事となる。九月十三日、肝臓がんのため自宅で死去。十一月十七日、青森市に棟方志功記念館が開館する。
|戻る|