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野の花 ココリコ
野の花 ココリコ
酒盃の草花
酒盃の草花

横浜市西戸部町に生まれる。明治末から大正初め(1910年代)にかけて、葵橋洋画研究所と本郷洋画研究所で学ぶほか、文学雑誌『聖盃』の同人となり、永瀬義郎とともに同誌の表紙、口絵のための木版画を作るなど、活発な制作版画の活動を行った。また早くからブレイクのほか、ムンクやルドンなどの世紀末芸術からも強い影響を受けている。

1980年の夏、京都国立近代美術館で「銅版画の巨匠・長谷川潔展」という大回顧展が開かれ、日本における長谷川芸術への理解と評価は、本格的な高まりを迎えた。この祖国からのおくればせのオマージュにつつまれながら、同年の12月13日、パリのヴィラ・スーラ通りの一隅で孤高の老巨匠はひっそりとその生涯を終えたのである。

1950年代末から1960年代を通じて、彼の制作はほとんどマニエール・ノワールにしぼられた。その理由は、深化された表現すべき精神的内容が他のいかなる技法よりも、マニエール・ノワール(黒の手法)を最適の技法としたからである。東洋の芳墨のように渋くて高雅な黒色を求めた彼は、銅版画用インクを分析研究し、種々の工夫をこらして、ついに褐色調や青藍調を含む黒インクを特別に作らせ用いている。フランスにおいて、墨に五彩あり、とする東洋水墨画の伝統によって訓練された、高度に洗練された黒の感覚を発揮したのである。

第一次世界大戦直後、彼はさらに絵画と版画の道を究めるべくフランスに渡るが、以後、昭和50年代半ば(1980年)にパリで没するまで第二次世界大戦をはさんで60年あまりの間、一度も日本に帰国することなく精神一筋の生涯を送ったのである。

渡仏してからは油絵のほかに、木口木版、石版、銅板などの全版画技法を研究し、サロン・ドートンヌの版画部会員に推されるほか、着実に評価を確立していった。彼は銅版画の分野に専念していくが、中でも彼の最大の功績とされるのは、すでにフランスで失われていた特殊技法マニエール・ノワール(メゾチント)を復活するのみならず、この技法に独自の工夫を加え、ほかに類のない近代的芸術を創造したところにある。

彼の作品の中には、動と静、生と死、光と闇、その他の対照的な要素や性格が、さりげなく、しかし濃密に共存している。また彼の特性は、一面では神秘性と象徴性への強い志向を持ちながら、他面では自然科学者的な観察力、数学や物理学にも関心をよせる合理的思考力の持ち主なのである。

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